数年前、中高の同窓会があった。
女子校はたぶんどこもそうだろうけど、本当にやかましかった。
耳鳴りがした。
がなるぐらいじゃないと、会話が成立しない。
酒焼けするほど飲んでないのに翌日は喉が枯れた。

 

 

 

記憶のグラデーション


 

 

その晩、会がはけたあと、同じ路線の2、3人と帰りながら、
「なんだか、満たされたねえ」
という感想を分かち合ったことを覚えている。
ひたすら飲み食いしてくだらない雑談をしていただけなので
話題の詳細なんていっさいよみがえってこないのだけど、
とにかく「満たされた」のは確かだった。
何をしたか以上に、誰と過ごしたか。
幸福の味わい深さを、何が決めるのか考えた。

どういう時間を過ごしてきたか、必ず記憶をよりどころにするけれど、
だいたい思い出というのはぼんやりとして捉えどころがない。
○年×月△日◇時、どこで、誰と、そういう条件がいくら正確になっても、
それは思い出や記憶の正確さを保証しない。
仮に細かく覚えていることがあったとして、過去に近づくことはできても、
全ての情報の「正しさ」をはかる、ものさしがそもそも存在しない。
時間は「一回性」「不可逆性」そのもの、経験は一度きり、
過ごした瞬間のリアルはそこにだけ宿る。

「空間」という言葉は、基本的に場所を指すが、
「どんな人たちがいる」かということも含んでいる。
彼と彼女と彼女と彼と…いう風に、
クラスメイトとか、とくべつ仲が良くてよく遊んだとか、
ある時間を共有する人びとが集まったときにだけ立ち上がる場があって、
それぞれの存在が、それぞれの時間を呼び込み、
過去や未来を何層にも織り上げ、いびつにふくらんだ空間を生む。

その空間で味わった「楽しかった」「心地よかった」感覚を、
さまざまな条件と要素に分解しても、
その空間を記述したり表現したり説明したり、再現したりできない。
小説の行間のように、簡単な言葉では輪郭をつかめない何か。
過ごす時間のうちに、肌身で味わう何か。
全体を幸福と呼ぶことで、かろうじて残像をとどめる。
これは映画や芝居を見る時間についても同じように思える。


浮世企画で年に1回くらい、だいたい夏に、
さびれた微妙な観光地に行ってだらだらしたり、
ヨッパライながらふざけた会話を繰り広げて
やっぱりだらだらして過ごすのだが、
これといって思い出深い出来事も、言葉も、やり取りもなくて、
みんな本当に怠けるだけ。
それで終わったあと、
とにかく「あーなんかおもしろかった!」という喜びと、
それをしっかりと掴まえられないまま、遠くにいってしまう寂しさだけが残る。

寂しいのは、夏のせいなのか、
遊び方がバーベキューとか遊園地とか、
はっきりしたイベントじゃないからかはわからない。
なんにしろ、いつも後味がはっきりせず、
振り返ると夢と現実の隔たりをなくした異次元空間が、

夏の記憶にぽつんと居座っている。

今年もどこか行けたらいいけど、みんなの予定はどうだろう。