演劇は開幕までどんな内容かわからない・・・「誰そ彼」ってなにそれおいしいの?になるのも道理、ということで脚本を読んだ感想をいただいてみました。
そこに確かにあったはずなのに、なくなってしまった途端、その姿形が思い出せなくなることがある。
たとえば、ほぼ毎日のように通っている商店街の一画が急にがらんとした更地になっていた時、そこが何の店だったか思い出せない。
看板の一つでも残っていればまだいいが、大抵はそんなもの跡形もなくなっていて、そこが眼鏡屋だったか不動産屋だったか、整骨院だったか、洋品店だったような気もするが、こんなに忘れてしまうということは大して気にも留めていなかったということなのだろうか、どうにももどかしい。
しかしまるで新しく生まれ変わってしまったあとのビルだの、ただの駐車場だのを見た時に、そこに確かにあったはずのものの匂いを嗅ぐことがある。
それが、「記憶」だ。記憶とはこれほどに曖昧だ。
たぶんこの『誰そ彼』に出てくる「人ではない者たち」は、あたしたち人間が、曖昧にしか捕らえられない「記憶」の一つ一つを何ひとつ手放すことなく持っている。
生きてきた長い時間のすべてをその体に刻んでたゆたっている。
だからこんなにも真っ直ぐで、美しくて、汚くて、哀しくて、可笑しい。
その「人ではない者たち」と、記憶を曖昧にすることでしか生きていけない「人間たち」が交差する『誰そ彼』。
羨ましくて、泣けてくる。あたしも、「人ではない者たち」を見たい。
半年後、一年後、この『誰そ彼』という舞台を観たことも忘れてしまっているかもしれないが、それでいい、それでもいい。
夕暮れ時の風の中に何か懐かしい匂いがしたら、きっとすぐ近くに「彼ら」がいる。
橘めい さん @TachibanaMay
マギーさん(※浮世企画主宰の今城文恵さん)から「脚本全文を読んでコメントを頂けませんか?」と依頼され、送られてきた脚本を読みました。
その後、ホームページに記載されている「作品あらすじ」を読み返すと、これがとてもよくできていることに気付かされます。
今作をご覧になる方は、事前にあらすじを読んでおくと、作品世界への没入がスムーズになると思います。
それ程このあらすじは、ネタバレを避けつつ旨味のみを抽出した、上品でコクのある「お出汁」として機能している。
ここから様々な食材や調理法が加わり、結果的にどんな演劇作品に仕上がるのか。
それは皆さんの五感で確かめてみて下さい。
僕はこの脚本を「片付ける」物語だなぁ、と捉えました。
仕事机を片付ける。部屋を片付ける。家を片付ける。家族を片付ける。人生を片付ける−−。考えてみれば、人間は生きている間、いつだって片付ける側です。
死去した際にようやく「片付けられる」側にまわれる。
生きることは、片付けることと似ているのかもしれません。
そこには、手間や苦悩や憂鬱や惜別などが伴います。
その先には利便性や幸福が待っているのかもしれませんが、常にそうだとも思えません。
ああ、厄介だなぁと思い、優先順位を下げ、頭の隅っこに追いやってしまったアレやコレやソレ。
そういうことをじっくり炙り出すような、そんな作品だと感じました。
最後に余談をひとつ。観劇後に下北沢の街を散歩したくなる一作だと思います。
お芝居の余韻と共に街を歩かれると、その、色々と、「視えちゃう」かも、しれませんね。
園田喬し さん @doughnutwork
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